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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
遺品でたどる父親の姿  その2 2008/03/06

あの日は、父親の最期に立ち会った母や姉と違い、私は知らせを聞いて急いでかけつけたが、間に合わなかった・・・。それゆえ、父親がいないことは理解しているものの、未だ父親の死に対する実感の無い不思議な想いが残っている。
でも、人が生前残した言葉が、その人を失って輝きを増すのは、どうしてなのだろう。もう二度と、生身のその人に出会えないとわかっているからだろうか・・・。

父親が残したノートにまつわる物語をまるですぐ身近で起きたかのように不思議な縁を感じられるのには、二つの理由がある。
ひとつは徹底した時代考証。自分がその時いくつだったか、何をやっていたか、かぶらせることで時代をよりリアルに体感することができる。また、そのときどきの流行や出来事、およそ生活のすべてに関して詳細に調べ上げられたのだろううんちくが楽しく、物語を離れてつい読みふけってしまう。
父親が目にする光景は鮮明で強烈な景色だ。それは決して美しいだけのものではなく、それどころか非常に醜悪な景色だったりするのだが、父親は立ち止まらずに自身の良心を信じてずんずん進んでいく。
いつの時代も描かれている物事がすべて鮮明で、登場人物たちの信心がとってもハッキリしている。不幸も、そのあとにやってくる救いも、とってもハッキリしていた。その姿は地味で目を背けたくなるほどこっけいで、華やいだイメージの社長像からは程遠く、そんなこと書くなよと思うような赤裸々さをもっているのだが、それでもこのノートの中の父親はまったく鮮明な世界を生きている。そこまで何かを信じて生きることは可能なのだろうか。信じるものの世界をこんなにもこっけいで赤裸々に書かれると、読んでいて確かに気持ちよい。これらノートに残された内容は極めて個人的な営みだ。なのに、これだけ時代を追って提示されると、゛社会の写し絵゛としての様相をくっきりと呈していることに驚かされる。

もうひとつは、会社の移転時のドタバタや、取引先をめぐる悲劇と罠など、とりあげる物事のひとつひとつがすべて、今私たちの身の回りで起きている事象とことごとく重なって感じられることだ。
この父親が残したノートをどのように読むかは、私自身に任されている。こんなことしているとまずいよ、と失敗防止のレシピのように読むことも出来るし、結局何でも1人で決断しなくてはいけない、現代の会社経営者の現実を教えられもする。
「原因は自分だった・・・何でも枠にはめ込もうとしていた」そのプロセスの中から学んださまざまな‘気づき’がまとめてある。たとえば「押し付けの思いやりを与えてはいないか」と自分に問う。経営者と従業員との考え方のギャップ、価値観のギャップで戸惑いながらも、たくさんの人々を見てきた父親は、時に自身の経験と重ね合わせようとする。「逃げずに向き合うこと」、「結果ではなくプロセスを押さえることが大切」と説く。父親ってやつは、とため息をつきながらもいとおしくてならなくなる。
つまり、父親の生きていた時代が、決して過去の出来事でなく、今という時代の地続きにあったと実感できる。物語が現在の私の゛モト゛を見極めようとしているのではないか、と思える本質がここにある。

今という時代を生きるとは、決してこびることでもおもねることでもない、なにか自分らしい折り合いがあるはずだともがく父親の姿が、私自身の問いとして胸に迫る。確かに私は、自分自身の運命を重ね合わせてみているのかもしれない。その父親から引き継ぐものの重さとは・・・。
これまで私は、幾度となく父親と比べられてきた。だから、私の中である程度客観化しないと父親のことは書けないと思っていた。
月日が経ち、やっと事実と距離をおくことができるようになり、コラムを書くことで少し助けられたような気がする。
今日は、父親の15回目の命日。父親が残したノートにまつわる物語は、「過去」と「未来」を私につなぐため、今も続いている。


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