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アイコン会社案内 会社沿革 〈 Corporate History 〉

明治22年、半農半漁の平穏な村落だった呉に、海軍鎮守府の開庁と市街地の築調に伴い、多くの商人が一攫千金を夢見て集団移住した。その頃、当社の前身である「海田商店」は、当時の元町(現在の本通2丁目)に店を開いた。
その後の呉は、海軍工廠の設置とともに軍港として急速に発展、日清戦争,日露戦争と海外派兵の出撃基地を担い、明治35年には市制を施行、人口も飛躍的に増え隆盛を極めた。
さらにその後の第1次世界大戦は、呉市に未曾有の繁栄とともに、人口の急増などから種々のひずみをもたらし、大正7年8月には米騒動にみまわれることとなった。

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↑昭和初期の三八商店(厚井初太郎本店)
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↑昭和初期の中通市場内商店の様子

昭和10年には「国防と産業大博覧会」が呉で開催された。それ以降悲惨な太平洋戦争へと突き進むこととなる。
その後の食料品物資の不足は必然的に経済統制をもたらすこととなり、昭和13年国家総動員法発令をもとに、当時の「三八商店(厚井初太郎本店)」、「海田商店」など呉市内の卸売人有志が合同して呉市堺川通2丁目3番地(当時の中通市場)に呉乾物株式会社を設立した(資本金5万円)。

戦時中は海軍御用商人として乾物,瓶缶詰,調味香辛料,酒類と共に生鮮食料品等も納入し、物品統制の厳しい中でも、呉市内外及び、近郊島しょ部の一般小売業者にも卸売を営んだ。
当時、一般小売業者に販売するものと海軍に納品するものとを別法人として区別するように国から指導があり、「呉軍納株式会社」という別会社を昭和18年に設立することとなる。
また昭和19年には中央食糧営団広島出張所の呉代理店を引き受ける。
終戦間際の昭和20年7月1日の深夜、米軍のB29爆撃機の呉市街地大空襲により、本社を全焼するものの、仮店舗での営業を続ける。

終戦後、崩壊した軍港都市呉市のため食料不足の中、「我々は呉の台所を預かっている」という使命感から逸早く復興に務めた。昭和23年には、国から戦災法人の認定を受けた(資本金54万円)。
昭和25年広島県知事より「公認卸売業者」の許可を得た後、昭和26年1月、全国でも比較的早い時期に呉市が中央卸売市場(現在の築地町)を開設したのに合わせて、当社も市場で営業を開始(資本金100万円)。
昭和27年8月海上警備隊が発足し、昭和29年には海上自衛隊呉地方隊・呉地方総監部となり納入業者として指名される。

昭和42年には資本金を現在の1,000万円に増資した。
昭和48年と昭和53年の「オイルショック」が景気を直撃。便乗値上げが相次ぎ、急速にインフレが加速。
原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動が起こり、社員が会社に寝泊りして、その対応に追われた。
その後、昭和57年7月、新しい呉市中央卸売市場開設に伴い現在地に本社を移転した。

平成7年1月には兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、各方面からの要請に当社は災害救助物資の供給に全力であたった。その即応能力に対し、当時の海上自衛隊阪神基地隊から感謝状を頂いた。
同年12月付、現社長中武スが第6代呉乾物代表取締役社長に就任。
平成10年には、会社設立60周年を機に経営戦略"小さな大企業計画"をスタート。

平成13年9月11日、米国にて同時多発テロが勃発し、世界を取り巻く環境が大きく変わった。
また「環境と事業活動の調和」を目指して、環境方針に基づき環境保全活動に本格的に取り組む。
業界では、食の信頼性を失わせる事件が相次ぎ、食の安心・安全が一層注目された。
平成19年11月、陸上自衛隊海田市駐屯地より任務遂行に大きく寄与した団体と評価され、感謝状と記念の楯を頂いた。
平成20年、会社設立70周年を向かえ、新たなスタートを切る。
激動の時代を呉の街とともに歩み、現在では、自衛隊,病院,学校給食等の納入業者として実績を積み重ねる一方、呉市内外及び、近郊島しょ部の一般小売業者,外食店等に卸売を営み、堅実な経営を心掛け豊かな食文化の実現に重要な役割を担っている。

郵便はがき
↑明治40年7月1日消印、呉市元町・海田商店が出した郵便はがき

郵便はがき
↑昭和18年太平洋戦争の中、別会社(呉軍納(株))ヘ産業奨励館(現在の原爆ドーム)にあった広島県警察部から届いた郵便はがき

届いた郵便
↑昭和20年仮店舗ヘ届いた郵便。愛知商事株式会社とは現在のカゴメ(株)です。

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↑昭和26年頃、開場まもない呉市中央卸売市場

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↑昭和57年、現在の呉市中央卸売市場の開場式の時の写真

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↑海上自衛隊にて納品中の様子