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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
9.11 〜 アメリカの祈り 〜 2008/09/11

なかなか文章のスタイルが決まらない。細部はいちいち明瞭なのに、パソコンに向かっても文字がキーボードを通してスムーズに流れ出してこない。それは、結局のところタイトルの細部を照らす眼の位置がキチッと定まっていないからだ。

7年前の9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが崩落していくシーンを最初に見た時の記憶を、多くの人々は、今も脳裏に深く刻んでいるに違いない。完璧すぎるほどに象徴的、衝撃的で、さまざまな意味で暗示的だったあの映像によって、世界の価値観は一変し、一種の思考停止に陥ってしまったような気がする。
これ以上なく痛々しく崩れた「アメリカン・ドリーム」・・・。世界は、とうとう開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのか・・・・。

標的になったのは、何の疑いもなくあの日の朝を迎えた無力な人々だっだ。そんな罪のない人々を無差別に殺害するテロは、紛れもない犯罪行為で許されるものではない。
しかし、テロ対策として「対テロ戦争」という対抗手段が、はたしてほんとうに有効だったのか・・・。その問いを、世界はようやく共有しつつあるようだ。
「自由と民主主義」を掲げる米国の戦争だが、もともと敵の定義はあいまいだった。結果としてアフガニスタンもイラクも情勢は、泥沼化している。

人々の生活をめちゃくちゃにする戦争なんかに合理性などあるはずがない。気がかりなのは、自らの思想、信念を貫くという姿勢が米国社会から失われているように見えることだ。「9.11」以降の傷ついた米国の迷走ぶりにそれが表れていると思う。米国人が譲らずに守ってきた価値観がぐらついている。お国のための戦争と言われ、愛国心があおられ、昔のように国内で反戦運動が盛り上がることもない。米国人が今、何をよりどころに生きているのかも見えてこない。それほど米国にとって失ったものが大きく、突然だったということだろう。

変な言い方だが「9.11」は時代の産物であり、当時の世界秩序への挑戦であったのではないか・・・。もちろん「9.11」を歴史の中でどうとらえ、将来の米国や世界にどう関連づけていくのかについては、いまだに明確な見方があるわけではない。戦争というゆがめられた結果を知る私たちにとって、大義を裏打ちするだけの確たる事実がない限り、単に「テロ対策」では片付けることもできない。

「9.11」から「対テロ戦争」へ続く現実を流れているのは、日常からはみ出した影のような「時間」ではないだろうか。その「時」の道を迷い、傷つき、歩みながら、米国は変わっていく・・・。世界もまた変わっていくだろう。
残念だが、もう少し「時間」が必要のようだ。

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アメリカ国旗を売る人

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祈りを捧げる人


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