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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
17歳 2009/02/04

大抵の人が、スポーツ選手の性別や経歴や出身地などより先にこだわってしまうファクターってなぁ〜んだ?
それは、きっと“年齢”に違いない。
確かに、性別というものが過去においては、かなり重要だった時代もある。しかし、そのことにこだわってきた人々が、いつのまにか無意識に“もう三十路よ〜”とか“いやぁもうアラフォーだもんね”とか“そういえば17歳の頃は、反抗期だったよなぁ”と、言い始めることを、私たちはもっと大きく見る必要があるのかもしれない。
実は誰でも男であるか女であるかといった問題以上に、いつも自分が今何歳であるかという事実に、きつく縛られているのではないだろうか・・・。

さて、石川遼は今17歳である。
これを単独で出されても、それほど(というよりは、まったく)大きな意味はなさない。だが、これが非常に重く見えてくるのは、彼が“17歳でありながらプロゴルファーとしてツアーに参戦し、プロ最年少優勝を飾り、年間獲得賞金が1億円を突破した”という事実を見せつけられ、さらにそうした“17歳の彼”と“17歳の時の自分”や“なんとなくテニス部で青春してた自分”を比べる時である。

たとえば、彼が17歳でなく、実は27歳だったらどうなっているだろう。
“17歳らしく大胆で攻撃的なプレー”は“27歳にしては若々しく少年のようなハツラツとしたプレー”とでも評価されるであろうか。
また17歳であることに魅かれているマスコミは、それでも27歳としての彼を変わらずこぞって取り上げるだろうか。
結局“17歳の彼”は、“普通の17歳の高校生”あるいは“17歳の時の自分”を前提に比較して得られる“相対的価値”にすぎないのだ。
私は最近、スポーツの世界で“年齢”あるいは“若さ”が絶対的価値を持ち得るのは唯一、“予想をよい形で裏切ること”でしかないと思っている。しかし、それも前提として既にその人の年齢を知っていて表現しようとしているということを付け加えておく必要があるだろう。

そうした意味で、彼が17歳である、という事実を可能な限り忘れて(としようとすること自体が既に年齢を必要以上に意識しているのだが)プレーや発言を見ていると、実は彼自身が自らの“17歳という年齢”に必要以上にこだわってプレーしているのではないかと、思わず想像してしまう。
彼にはこれからも、年齢にこだわったプレーで、変わらず私たちを“いい意味で裏切り”続けてもらいたい。
今年の春には、彼自身が夢にまで見た「マスターズ」へ特別招待選手として出場することになり、ますます期待が膨らむ。
だが、その一方で彼自身が関与していない部分、つまり“彼の持つ商品価値”が、大人たちの様々な思惑にのみ込まれ、出場の喜びの裏で不安がよぎるのも確かだ。
それがたとえ“17歳の彼”に対する“17歳の時の自分”が抱くコンプレックスの裏返しであるとしても。


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