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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
‘1Q84’へのオマージュ column 1 2009/08/05

『 WHO CONTROLS THE PAST CONTROLS THE FUTURE
   WHO CONTROLS THE PRESENT CONTROLS THE PAST 』
 〜過去を制する者は未来を制す 現在を制する者は過去を制す〜

   1984(1984年)/George Orwell(ジョージ・オーウェル)


第1章 ≪春 樹≫  ようこそ『1Q84』の世界へ

『1Q84』は村上春樹作品にとって、いくつかの意味で画期的な作品といえる。まず驚いたのは、その異常な売れっぷりだ。出版不況が叫ばれる中、いったいなぜこんなに売れるのか・・・?
いくら久しぶりの新作とはいえ、話題が話題を呼び、発売直後からすべての店頭で売り切れ状態となり出版社サイドもビックリ。今でこそ落ち着いたが、発売当初は強引な裏ワザ(関係者)を使ってまで手に入れた人も多かったはずだ。
そこまでして手に入れたこの小説に託す読者(ファン)の期待は、ハンパではない。だが、この作品にはこれまでの村上春樹作品のように、読み終えた時の恍惚感といったものがないのだ。それどころか、なんだか物語が終わった気がしないまま、頭の中で今も異空間が展開している。どことなく落ち着かない不思議な読後感が、覆いすがるように離れようとしないのだ。
きっと、社会のしがらみを超えて人間の存在の根底からつむぎ出される言葉の数々が、下り坂の時代に生きる私たちの心にズシリと響いたのかも知れない・・・。

また、村上春樹作品としては珍しく女性の主人公の物語から始まる。しかもそのキャラクターの存在感は、物語の中で一貫して際立っている。青豆という変わった名前のその女性は、“過去を過去として生きていくことができる”愛情に餓えた女性だ。
もう一人の主人公の天吾は、“過去を過去として生きることに対し、どこかやるせない思いを抱いている”癒し系の青年だ。
離れていても深い絆で結ばれた青豆と天吾。オトナであるからこそ欲望に忠実でありたいと考える二人。この二人の別々の時間が絡み合ったり、切り替えられたり、縦横無尽に読み手は心理を揺さぶられる。
そして、二人にとっての偶然は、全て『1Q84』へと繋がっていく。そこは現実の‘1984年’とは微妙にズレた、月が二つある謎めいた世界。

第2章 ≪Bowie≫  ジオラマ的に再現された1984年

1974年発表の『Diamond Dogs(ダイアモンドの犬)/David Bowie(デヴィッド・ボウイ)』は、ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984(1984年)』をモチーフに制作されたコンセプト・アルバム。1974年当時から見た、10年後の未来である‘1984年’を描いている。
英米の先達の語法を再利用した多様な編曲や劇的な展開による近未来SFロック・オペラといった感じ。カット・アップされた歌詞や近未来都市の悪夢的情景など、W・バロウズの影響も感じられる。残念なことに結局オーウェルの遺族から正式な許可がもらえず、さまざまな制約で縛られることになった作品。
しかしオーウェルの小説『1984年』は、当時のBowieの創作意欲に及ぼした不可避の影響として、アルバムの収録曲に見事に反映されている。ここでBowieは全く道を踏み外していないことがよくわかり、結果として小説『1984年』に対するBowieの解釈は、正しいといえる。ちょうど映画の‘マトリックス’に通じる排他的で不可思議な世界観といえば、分かりやすいかもしれない。

このアルバムに収録されている『1984(1984年)』は、Bowieの隠れた名曲である。イントロではドラマチックな緊張感が漂い、もの悲しいギターの響き、けれどだんだん熱いものが込み上げてくる。トニー・ビスコンティーのスリリングなアレンジは素晴らしく、曲そのものはアルバム中で際立っている。この曲だけなんか浮いている感じがするのだ。圧倒的なボーカル・テクニックにすべてを依存したBowie以外の人ではちょっと歌えないのではないかと思わせる出来で、派手ではないが確実に胸を打つ。
村上春樹の小説『1Q84』と違い、Bowieのこの『1984年』という曲は、未来に対するアプローチが前提となっている。きっと私たちの暮らすこの世界の未来図を、この曲でジオラマ的に再現しようとしたのではないか。それはまるでひとつの抽象画を見るように、聞く者の想像力を刺激する。

第3章 ≪春 樹≫  過去と同じ目線で未来を見つめる

『1Q84』の舞台となるは‘1984年’の日本。こちらもジョージ・オーウェルの近未来小説『1984(1984年)』を下敷きに、現在から‘1984年’という過去を描いている。過去をレンガのように積み重ねる‘試み’を繰り返す様が知的に構築され、インスピレーションだけでなく、言葉や現在との時間軸を考えている。長編小説としては不思議な構成で戸惑いながらも、カメラアングルを意識したような描写に、途中から物語の世界に強引に引き込まれていく。
オトナと子供、女と男、強者と弱者、表と裏、好きか嫌いか、正義と悪、さまざまな違いを持つ存在があり、その違いをどう乗り越え、互いを認め合っていくべきか。そこには、人間の奥底に潜む残忍さと救い、気持ちの中に何かしらとげを残すような言葉の数々、そんな複雑な感情が見事に描かれている。おそらく村上春樹作品としては、最もエンターテイメント的な要素を多く含んだ作品といっていいだろう。

「現在という十字路に立って過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ」

これまで目をそむけてきた過去を直視すれば、子供の頃見えていた物語の主人公になりうるはずだ。物語の力で、過去はその可能性ごとよみがえり、書き直され、修正される。それが未来を切り開く。過去と向き合うことによって何が変わったのか、さらに未来に向けて何を変えていくべきか。過去と同じ目線で未来を見つめる作業。
村上春樹は『1Q84』の物語の中で、自らの視点を確認する醍醐味を味わっているかのように感じる。

第4章 ≪Bowie≫  未来を夢見ることが許されるのだろうか

オーウェルの小説が書かれたのが1948年。ちなみに題名の1984年とは1948年の48を逆にしたものだとか。第二次世界大戦直後のまだ世界が混沌としていた時代に、よくもまあ、ここまで緻密な世界観を創造することができたものだ。しかもそのメッセージは、ぞっとするほどリアリティーにあふれている。現代社会のさまざまな矛盾やおかしな点を指摘した風刺小説としての側面もある。
実際はいつの時代でも起こり得る思想統制、管理社会への警笛を鳴らした内容で、今も異彩を放っている。架空の独裁国家を舞台にしていて、未来を予想した予言小説として、とらえることも出来るかもしれない。たとえば、どこかの跡目問題で揺れている将軍様の隣国なんかは、まさにこの状態といえる。

大体、1948年当時に、35年以上も先の未来をどれだけ予言できるというのか。
当時であれば、タイムマシーンでどこでも行けるとか、車が空を飛んでいるとか、あるいは、宇宙人と友達になるなど・・・、その程度を想像するが精一杯のところじゃないだろうか。
もし自分が今から35年後の未来を想像してごらんと聞かれても、きっと「サザエさん」は変わらずやっているような気がする・・・、それぐらいしか答えられない。いや、正直こっちのほうがよっぽど興味がある。
しかし、明日という日さえ予測することが困難な時代に生きる私たちに、未来を夢見ることが許されるのだろうか。ネット社会がこの星を覆い、まばたきしたほんの一瞬のスキに情報が脳ミソに流れ込んでくる未来に、はたして私たちは耐えることができるのだろうか。そして、迷いもあきらめも抱えたまま、ただ生きていくしかないのだろうか。改めて聞くBowieの曲『1984年』が、オーウェルのメッセージの正当性を訴えた作品のように聞こえてくるから不思議だ。

画像

1984(1984年)/George Orwell(ジョージ・オーウェル)


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