(乾)呉乾物株式会社 image
会社案内
企業ビジョン
CSR活動

社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
ケータイの功罪 2010/02/23

昨日、4年間使い慣れたケータイを思い切って買い替えた。下見のつもりが、ド★モショップのお姉さんの巧みなセールスに翻弄され、思わず使いもしない機能満載の新機種を買ってしまった・・・。
それにしても、最近のケータイはすごい。これだけテンコ盛りの機能をすべて使いこなす人なんかいるんだろうか。確かに、これさえあれば何だって出来そうで、若者達が夢中になるのもわかるような気がする。ここ数年でケータイならではのさまざまな文化も誕生し、今後も新たな役割が期待されている。もはや誰もケータイを否定することはできない。持っていなければ奇人変人扱いされてもしかたがないだろう。

だが、ちょっと待った!
最近疑問に思うのは、そんなにケータイを使わなければならないほど、身のまわりに緊急事態が多いのだろうか、ということ。すぐ電話がほしいと言われて、慌ててかけ直してみると、明日でも充分間に合うような用件であることが多い・・・。果たして緊急の用件は、そんなに頻繁にあるものだろうか。
また、ケータイの利便性やサービスや機能を本当に活用すべきかについても疑問に思っている。写真やメール、自他の個人情報やメモ帳に財布の中身など、生活のいたって重要な部分を持ち運びできるデリケートな機械に託してしまうなんて、やっぱりどうかしてる。そして何よりも、紛失した時は悲劇である。
オレオレ詐欺もケータイが使われる。ケータイやメールによる犯罪や障害などケータイの負の部分の調査や研究を電話会社がやるはずがない。
ケータイが普及し始めた頃から、時代は激しく変わってきた。今や現代社会の縮図としてケータイは、あらゆるものを飲み尽くそうとしている。

一方で、ケータイを忘れて外出すると、妙に不安になるのも事実だ。まるで何か自分が世界で一番遠いところにいる人間のような気がして、落ち着かない。生活ばかりか人格の大部分をも、その箱に委ねている証拠である。
何よりも危うく感じるのは、ケータイが現代人の関心を、もっぱら「今」に「この瞬間」に向けさせていることだ。常に新しい「今」が前へ前へと表示され、過去は規則正しい順番で、どんどん履歴という隅っこに追いやられていく・・・。記憶や反省、沈黙や空想の役割はますます小さくなっていき、まさに「この瞬間」をケータイを通して満喫するリアル感が優先される。この小さな薄い箱は、現代人の生活様式どころか、思考形態まで変えつつあるのだ。

利用可能なサービスや機能が増えているため、いちいち先のことまで考えなくても、いつでも何でもできて当然だという感覚も広がっている。もはや単なる電話を超えたケータイは、打ち出の小槌のようなメディアと化し、頭ごなしに「やめろ」と言っても聞き入れられるものではない。
ケータイによって、いつでもどこでも誰とでもコミュニケーションが取れる時代。だが、コミュニケーションの良し悪しは手段ではなく、内容で決まる。
せめて、便利な道具としてケータイを使うにしても、反対にそれに使われないように気をつけたい。どんな時代でも、生活の中でバランスをとるのは自分自身なのだから・・・。


しゃコラのトップへ >>