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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
めぐらし屋 2010/03/24

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『 めぐらし屋 / 堀江敏幸 』

人生とは滑稽なものである。
大抵の人はそのことをあまり認めたがらず、職場におけるポジションだとか家庭における役割といったものに、自身の存在する意味を求めたがる。ところが、著者の堀江敏幸はそんなちっぽけな思惑を思いっきり笑ってみせる。
堀江敏幸の小説は、まるですっきりとした線で描かれたスケッチのようだ。余分な線や、はみ出したものはそこにはない。シンプルな線画の小説の世界は明るく、途方もなく深遠である。それなのに、必ずどこかに変てこなものが隠されている感じ。変てこなものとは、人の繋がりの不可思議さであり、人間の存在の真実であり、人生の滑稽さである。

物語の主人公の蕗子さんは、ビルの管理会社で働くちょっと病弱な女性。
その蕗子さんが、亡くなった父親の遺品をアパートで整理している時、「めぐらし屋」という父親の意外な過去に触れたことで、生活に思いがけない記憶と人との出会いが絡み合っていくストーリー。何の変哲もない日常を生きるだけでも精一杯なのに、次々とたぐり寄せられる過去の記憶と、父親の知られざる顔に、思いをめぐらせていく。そして過ぎ去った‘時’に心をめぐらし、他人との不思議な関係に思いをめぐらし、肝心なところはぼかしながら心地よく物語りは進んでいく。どこかしら日常に潜む深い亀裂のようなものが描かれているのだが、なぜか心地よい。読者をいや応なしに引き込む文章が、迷いのない絵筆の動きを連想させる。

「わからないことは、わからないままにしておくのがいちばんいい」と、蕗子さんは父に教わった。
それは父の‘生き方’そのものだったのだ。この物語が立ち上がってくる力は、この一行に現れている。
理解しようと思うほどに、父親の人生はいよいよ理解しがたい様相を呈して離れていく。関係する人々とも、必ずしも真に心を通わせ、思いを尽くしたという形跡は見いだしがたい。父親がどんな生き方をしたのか知ることはできても、それがすなわち父親を理解することには繋がらないのだ。
父親と死別した私にとって、共感できる部分の多い作品のため、ここにめぐらす父親像が、自らの心にどう映るのか、なんだか試され問われている思いがして複雑だ。

どんな生き方がいいのか。どんな死に方がいいのか。あるいはどんな仕事がいいのか。家族は?生活は?などと普段は考える余裕もないから、現代人は生きるスタイルを見いだせないまま、戸惑い、うめきながら一生懸命生きるしかない。でも、その‘生きる’という困難な道のりも、少し離れて眺めてみると、実は滑稽なものなのだ。ここで繰り広げられているのはそんな人間ドラマであり、あらゆる世代が潜ませている感情のやるせなさにほかならない。
だが、このやるせなさに、著者はあえて形を与えないのだ。物語は時に唐突な終わり方をするが、その何ともいえない余韻こそ著者の意図したものかもしれない。読み終えたとき、きっと誰もが登場人物に己の裏面を見つけることができるはずだ。
やるせないまま、生前の父親について思いをめぐらす主人公の姿は、人間誰もが抱える滑稽さそのものである。


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