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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
オトナのための言葉 2010/05/14

画像「尾崎 豊/十七歳の地図」

なぜか思春期には詩が似合う。
その昔、揺れ動く心身を言葉に託してこっそりノートに書いてみた覚えのある人も多いはず。けれど、そういう人がすべて詩人になるわけではない。
では、いったいどこにその別れ道があるのだろう・・・。特別な力を秘めている人はたくさんいるけれど、それを外に向けて表現する勇気を持っているかどうか。結局その勇気こそ最大のポイントじゃないだろうか。
そんなことを感じながら、整理中にたまたま目にとまった尾崎豊のデビューアルバムをかけてみる。久しぶりに聞く彼の歌は、いったいどんな風に聞こえるのだろう。

教室の記憶が汚れのようについたカバンやノート、与えられた教科書は世界をけむにまこうとしている。予測不可能な未来にいったい何を求めればいいのか。もっと自分らしく自由に生きてみたい。そんな不安定な10代のヒリヒリする皮膚感覚を伝える詩の言葉が、聞き手の胸をも容赦なく震わせる。思春期の心の揺れや模索を描き出し、まるで訳もなくいら立つ若者の息づかいが聞こえてくるようだ。
だが、これは型破りの感傷や抵抗などでは決してない。
ひょっとすると、そこにこそ「他人に分かってもらいたい」と願う「若さ」があったのかもしれない。

尾崎豊の歌の最大の魅力は、リスナーの人生を照射することである。彼の歌を聞かずに10代を過ごすのは、貴重な出会いを自ら捨ててしまうようでもったいないと思う。分かりやすく言うと、思わず自分の生き方や若さゆえの体験という、日常の中で埋もれた主題に対面させられてしまうのだ。なんだか、より分かりにくくなったみたいだ。要するに「人生ってなんだ」「愛ってなんだ」と考えさせられるのだ。それは「YEAH!」式の反応を求める骨太ロッカー達の対極にいる。

また、彼のボーカルは常に独特の癖を持っている。日本語が浮いているというか、明確に発音される開音節がバックのビートを寸断してしまう。それなのに尾崎豊の歌は、間違いなく‘日本語ロック’といえるものだ。
だが、彼の歌はいつも日本語でロックを歌うことへの居心地悪さをひきずっている。日本語が簡素化され英語のようにリズムが速くなったいまどきの歌い方とは明らかに違う。だから桑田佳祐にはなれないし、B'zやミスチルにならなくてすむ。言葉をムード主体にデジタル感覚で並べるのではなく、明確なメッセージに収束させていく表現手段として、言葉の意味から離れずに使っている。日本語ロックの業(ごう)を背負った尾崎豊の歌は不器用ではあるが、どこか潔い。

強さともろさを併せ持つ尾崎豊の歌の魅力は、時代を超えて一貫している。文学的ということでは、清志郎以上、バブル世代のこだわりという点では、氷室京介以上の人であることを思い出した。異端児とはいえ、その時代の空気に乗り、若者に大きな影響力を及ぼす作品を生み出した尾崎豊。
情熱にあふれ、素晴らしい感性を持った人間だからこそ、常人には想像もつかない自分だけの世界を構築し、『壮絶な間違い』もする。今となっては、存在がひとつの『作品』でさえある。音楽的言葉をもって生と向き合い、時代と格闘した彼の短すぎた人生のディテールが、歌にちりばめられているかのようだ。

改めて聞く尾崎豊の歌は、思春期のための言葉ではない。むしろ、型にはまった自分から脱け出しにくくなっているオトナのための言葉のように、聞こえるから不思議だ。


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