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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
被害者の母親〜拉致という問い〜 2012/02/01

突然、不条理に起こった「拉致」という事件。その被害者である横田めぐみさんの母、早紀江さん。久しぶりにテレビで語りかけている姿を見た。
なぜこれほどまでも気丈に振舞うことができるのだろう。取り乱すこともなく、また大声でわめくわけでもなく・・・。

平明な言葉の裏側には、膨大な苦悩が潜んでいる。犠牲となった娘に心寄せるため、日本中を、いや世界中で30年余りにわたって命を削りながら拉致問題を問いかけてきた。時に泣き、時に怒りに震えながら、苦しみや痛み、現実を受け止めて・・・。
そんな早紀江さんの原動力とは、いったい何なのだろう。

『北朝鮮の犠牲になった人々』という、これまでのセンセーショナルでひとくくりにされていた被害者像。だが、2004年に当時の小泉総理の突然の訪朝から事態は一変。飛行機を降りてくるひとり一人の顔がテレビ画面に現れた瞬間、私たちははじめて拉致を実感した。

被害者の家族は長い間、拉致そのものの事実を知らされないままだった。公表された後も断片的な事実しかなく、やり場のない思いをずっと抱えて生きてきたはずだ。そうした家族に対し、国や国際社会そして私たちは、どれだけ手を差し伸べたといえるのだろう。国だけを責めて済むのならまだしも、日本社会全体、ということは私たちひとり一人が理不尽な差別の当事者であり続けていた現実を見据え、あらためて今後の生き方に繋げる教訓としたい。

時代も、背景も特定されない共通項があるとしたら、早紀江さんが渡り歩くのは、「戦いの場」であるということ。愚かな歴史は繰り返すし、人の心の弱さや醜さは、いつだってある。けれど、それすらも「限られた生」ゆえのものとして、我が子をいとおしむような母親としての温かい視線がある。そして、その裏側にあるのは、「永遠の生」を持つことができない拉致被害者の母親としての老いに対する壮絶な不安だ。年を取るたびに残された時間がそう長くはないことを感じる老いへの絶望感なのだ。その対比が、見ていて胸に迫る。

だが、そんな壮絶な物語にも希望は用意されている。もたらすのはやはり娘の写真。最愛の人の写真は生きるしるべとなり、引き裂かれた家族の希望という未来を切り開いてくれる。その娘の写真が家族の今に語りかけるものとは・・・。

私は被害者たちの人生とは、「その後」をどう生きるか、に尽きるのではないかという思いが底流にある。そして、被害者の果たせなかった願いや、家族を突然失った両親や兄弟たちの苦悶を知るとき、私たちは被害者が自分たちと何ら変わらない人間であることに気づく。拉致の恐さや人間の愚かさに改めて思いを致すのである。
拉致という問いは、歴史だけでなく、私たちが自分たちの社会の「現在」さえ知らないことをあぶり出してくる。「拉致とは」という鋭い問い掛けを私たちに突きつけ、「時」が封印し続けてきた生身の人間の声をすくい上げてくるのだ。

北朝鮮で圧倒的な権力が私たちと同じ人間を暴力で破壊し続けている現実は、被害者とその家族が人間として温かい言葉を交わし、なけなしの心を通わせた経験を通してこそ、ニュースとしての情報ではなく血と肉を伴って伝わってくる。最も虐げられてきた人々が最悪の状況下で人間性を失うどころか、より豊かに人間性を取り戻そうとしていることに注目したい。

今こそ早紀江さんや被害者家族は、自分たちの思いや声を真摯に聞き、それを世界へ伝えてくれる存在を切望しているのだ。ひとりの母親として訴え続けてきた早紀江さんの声は、見知らぬ被害者の悲劇を私たち自身の物語へと転換することを強く促している気がする。

最近マスコミがあまりとり上げなくなった拉致問題。今回の北朝鮮の最高指導者の交代が、新たな進展に繋がることを期待したい。


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