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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
寛容な社会とは 2012/07/19

最近、テレビのニュースや報道番組を見ていると、ボカシを入れた映像を目にすることが多い。
人の顔はおろか現場の建物、商品や看板、風景にまで・・・。そんな映像を見ていると、「ちゃんと人権に配慮してますよ!」という言い訳がましいテロップがつけられているような気がして落ち着かない。だったら、最初からそんな映像は使わなければいいのにと思ってしまう。

ニッポンのメディアは、報道する場合に「タブー的」であれば実名を避け、画像や映像にボカシ処理をすれば人権保護であると考えているのだろう。裏返せば、ニュースを受け取る側、つまり私たちも匿名とボカシをプライバシーと人権の保護であると決めつけてはいないか。これこそが成熟した先進国の人権配慮なんだ、と・・・。

果たしてそうなのだろうか。

たとえば、英国では、実名報道が基本らしい。未成年であろうが、被害者であろうが、変わることはない。むしろ被害者自らが表に出て犯罪を訴える。家族や友人も実名とボカシなしの顔写真や映像とともに窮状を訴えかける。ニュースの対象が何であろうとそれは変わることはない。

英国メディアの実名報道は匿名によって個としての人間を埋没させることなく、個人を尊重するという側面があるとのこと。もちろんそれはそれで問題もあるのだが、同じ島国のニッポンとどうしてこんなにも差があるのだろう。

どうやら両国の社会の「寛容性」に差がありそうだ。

ニッポンの「恥の文化」は節度や礼儀につながる。だが、こうした文化は加害者の徹底的な排除、そして被害者までも遠ざけてしまう「不寛容性」に転化しうる。つまり、問題の所在は実名報道かどうかではなく、社会の「不寛容性」なのかもしれない。

ニッポン人は犯罪において、加害者、被害者を問わず「あえて距離をおく」接し方が適当であると考え、「下手に接しないほうが相手のためだ」「そっとしておいたほうがいい」と考えがちだ。
これでは客観的な理解を欠き、とかく善意の行動のつもりが、被害者を孤立させる心配がある。さらに追い詰めるようなことはなんとしても防ぎたい。
被害者が忌避されることなく逆に実名で報じられることによって、社会の温かい支援が受けられる方が、はるかに成熟した社会であるはずだ。

人権保護については様々な意見があって当然だろう。リアル社会とネット社会での人権保護の扱い方も違っている。どんなに些細なことでも人権保護について、企業も取り組まなくてはいけない時代になった。
実名報道を称賛、提唱しているわけではないが、「寛容な社会」の実現を願う者として、報道のあり方で一番大切なことが、匿名やボカシではないことは間違いないと思う。


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