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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
自分のものではない記憶 2012/08/15

今日のニッポンの根幹には、やはりあの戦争の記憶が、血肉化し深く潜んでいる・・・。
戦後67年もたっているのに、あの戦争の総括はちゃんと行われてるとはいえない。靖国問題ひとつとっても、いまだに世論は割れ、議論は混乱している。
東日本大震災の後、‘生き残ったこと’や‘生きること’の意味を問われる日々が続く私たちの日常には、あの戦争があったことすら伝わりにくい現実があるのだ・・・。

戦争の記憶を失った社会は、きっと恐ろしい社会となることだろう。戦争を体験した世代が年々世を去る中で、私たちニッポン人がいま直面しているのは、自分のものではない記憶をどうしたら記憶できるのかという難問である。

どのような体験として記憶し、語り継いでいくべきなのか。あの戦争の悲劇を今も引きずる人がいることを、私たちは決して忘れてはならない。なのに一部の戦争を知らない世代には、自らに心地のいい、反戦や平和や殉国の物語として紡ぎ出そうとしている人がいるのは残念だ。

なぜニッポンは、戦争への道に踏み込んでしまったのか。そして、普通の市民がどんな目に遭ったのか。その後、国はいったい何をしてくれたのか。
私たち戦争を知らない世代が、これらの疑問を前に、改めて過去に向き合うことが必要な時代になってきた。こういったことが、二度と悲惨な戦争への道を歩まないことにつながるはずだ。そして、こうした作業を通して、戦争を知らない私たちもまた当事者性を獲得できるのではないだろうか。

しかし、過去の記憶を「ありのまま」残せたとしても、それが喚起する歴史は一様ではない。
「記憶の場」は常に歴史認識をめぐる闘争の場でもある。その戦いは同時に、違う未来への可能性もつくり出してしまう。

「戦争の記憶」は反戦へのメッセージだけでなく、あらゆる国家暴力への抗議行動を促すことにつながる。何を記憶し、その記憶をいかに現在に介在させるのか。記憶への意思は現在をつくりかえる力となり、「戦争の記憶」を未来へと導いてくれるはずだ。

今や修学旅行の見学コースのひとつでしかなくなった原爆ドームのように、戦争も平和もリアルではなく、形式としてしか理解されていない。もはや過去は、現在と断絶してしまったのだろうか。もうあの戦争はただの歴史にすぎないのだろうか・・・。

「いや、そんなことはない!」

記憶のどこかで、それらはひそやかにつながっている。
戦争を体験した人々が生きたあの時代と、私たちが生きるこの時代が、歴史の流れの中で間違いなく地続きなのだ。
全てのものごとには歴史があり、さかのぼることで、それらが頭の中でつながっていく。歴史は‘自分のものではない記憶’という物語なのだ。

今日は、終戦記念日。

どれだけのニッポン人が、歴史につながる今の自分を語ることができるのだろう。


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