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社長のコラム しゃコラ



社長のコラム、通称“しゃコラ”
引き際 2012/10/23

今年も大勢のプロ野球選手が、惜しまれながら現役を引退した。
どんな選手にだって「引き際」は必ず訪れる。だが引き際の美学は、決して一通りではない。人間というもの、引き際にこそ生き様が表れる。

そのキャリアが輝かしければ輝かしいほど、引退に踏み切った裏には壮絶な人間ドラマがあるはずだ。スポーツ史に残るレジェンドが、自身の引き際の封印を解く瞬間、そこでのコメントもまた大きく注目される。名文句を残して現役を引退した多くの名選手たち。今も色あせることなくファンの記憶の中にしっかりと刻まれている。

だが、引退試合やセレモニーを用意してもらって引退できる選手は、ほんのひと握りだ。残念ながらほとんどの選手は、静かにユニフォームを脱ぐ。また、不本意な辞め方で球界を去っていく選手も多い。そこには百人百様の生き様が垣間見えてくる。プロ野球選手にとって「引退」は、大きな人生の節目。それは人生最大の決断を迫られる大一番。

プロ野球選手に限らずスポーツ選手の引き際には、さまざまな考え方がある。
「惜しまれるうちが花」と言われながら過去の栄光を汚さぬうちに潔く引退するのを美学とする選手。また、もう要らないから、辞めろ!と言われるまで、ボロボロになってでも現役にこだわる生き方を貫く選手。どっちが正しいのか、私にはわからない。ただ「引き際を自分で決められる選手」であるならば、もう正しいとか正しくないとかはないんじゃないか・・・。そんな風にも思う。

でも最近では昔と違い、国を問わず野球を続けられる環境を求めて“流浪(るろう)”する名選手も多くなった。引退することにどうしても踏ん切りがつかないのだ。まだやれる気がする、もう一度スポットライトをあびたい、このまま終われないなどの思いを抱えて決断できないベテラン選手たち。引き際をいつにするかは、アスリートにとって非常に難しい決断に違いない。拭い切れないモヤモヤとした感情が、悲痛な叫び声として聞こえてきそうだ。

引き際を間違えたために輝かしい功績すら無駄になってしまうこともある。だから球団側も名選手と呼ばれる選手であればあるこそ、引き際に気を使ってやらなければいけないと思う。いくら実力の世界とはいえ、まさに執念で名実ともに名選手の仲間入りを果たした選手に、いとも簡単に戦力外通告や引退勧告をするのは、あまりにも酷だ。

彼らは皆、アスリートとして燃え尽きる場所を求めているのだ。残された時間の中で自分自身の存在をかけた闘いを続けている彼らに、自らの意思で引き際を決断させてやってほしいと願う。矢尽き、刀が折れての満身創痍の引退劇にファンは涙したいのだ。
球界全体でプロ野球選手としてのアイデンティティーを尊重してやり、“流浪”する選手を絶対に出してはいけないと思う。


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